本能寺の変のあと清洲城主は次男の信雄となり、天正14年(1586)大改築され、内・中・外の三重の堀を構えた大城郭に生まれ変わります。このときの城下の範囲は東西1.6km、南北2.8kmに及んだと伝えられています。
その後、慶長15年(1610)徳川家康は清洲廃都、名古屋遷都を指令し、慶長18年に尾張の都「名古屋」がほぼ完成しました。信長公の偉業を継ぐ2人の天下人豊臣・徳川のお膝下にあって「東海の巨鎮」「天下の名城」などと賞賛を博した清洲城は、6万都市とともにその姿を消してしまいました。これを「清洲越し」といいます。当時の臼引歌は、その有り様を「思いがけない名古屋ができて、花の清須(きよす)は野となろう…」と唄っています。
織田信長・信忠父子亡き後の清洲城主は、信長の次男信雄・豊臣秀次(関白)・福島正則(秀吉腹心の大名)・松平忠吉(家康の四男)・徳川義直(家康の九男)と代わりました。当時、時の為政者が天下を統一・掌握するに当たり、清洲をいかに重要視していたかがうかがえます。 なお、名古屋城築城に際し、清洲城も築城の材料として積極的に利用され、特に名古屋城御深井丸の西北櫓は、清洲城天主の古材でつくられました。この西北櫓は「清洲櫓」とも呼ばれ、今も堀にその美しい姿をうつしています。 |